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電力ねぶたの歴史をたどります。

各年のねぶたはこちらから↓

出陣の足跡

「電力ねぶた」と北川翁dish


「電力ねぶた」と北川金三郎さん
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料理イメージ  北川金三郎は明治13年に鍛冶町の桶屋の三男として生まれた。左官屋を営 み成功した人でもあった。同じ町内の坂田金作についてねぶた作りを学び、若 い頃から自分で製作したといわれる。金三郎は坂田流のねぶたを厳密に踏襲し たというが、それに満足せず既製のものを大きくアレンジすることのできた稀 有な製作者であった。
 そして、理想的なねぶた人形としての完成を目指した。 桃太郎であってもどういう格好で鬼を押さえ付けるのが観客に映えるかを常 にさぐった。金三郎のねぶたは立ち姿が真っすぐではなくひねっていた。 戦後、ねぶたはすぐに復活するがその中心は60歳を過ぎた金三郎であった。 「北川のジサマ」と呼ばれるようになる。
 「北川のオンチャマ」こと息子啓三もね ぶたを手掛けるようになる。金三郎はねぶたに新しい素材や技術を意欲的に取 り入れた。骨を従来の竹から針金に変えたり、蛍光灯を照明に使用したりした。
 そして、最高傑作といわれる『勧進帳』(昭和32年東北電力)が生まれた。 金三郎はまた息子北川啓三、佐藤伝蔵ら多くの弟子を育て上げた。まさしく 青森ねぶたの中興の祖ともいうべき存在であった。
 それで、昭和34年にねぶ た関係者の創意により初めて「ねぶた名人」の称号が与えられた。その翌年の昭和35年に他界。※青森ねぶた誌から引用
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革新的なねぶた制作
 従来の竹ではなく針金で骨組みを作ったり。照明には当時珍しかった蛍光灯を使用したり。特に1957年(昭和32年)に発表された最高傑作『勧進帳』は、蛍光灯をふんだんに使った明るさと、映画の画面からヒントを得た横幅の広い斬新な形態で、当時の常識を覆し、青森市民を大いに驚かせました。

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大森彦七と千早姫1954(s29)年
 南北朝時代。湊川の戦いで南朝側の名将 楠木正成を討ち取った大森彦七は、その後、自分の領地である四国 伊予(現在の愛媛県)に戻っていた。
 ある日、彦七は自らが能を舞うため、仲間の侍らと共に寺の能舞台へ向うが、その道中、舞台鑑賞を望む娘と出会い同行を許す。
 だが、この娘の正体は楠木家の宝剣『菊水』を取り戻し、父の仇を討つため近づいてきた正成の娘、千早姫であった。
 増水した川にさしかかり、彦七は娘を背負って渡るが、途中で背後から鬼女の面を被り恐ろしい鬼へと姿を変えた千早姫が襲いかかって来た。争いの中で正体を見破った彦七は、千早姫から誤解を受けている事を知り、真実を語る。
 楠木の本陣に攻め入ると、既に正成は切腹直前であったが、武士の礼を尽くして最期を見届け感謝された事、そこに残された刀を宝剣と知らず携(たずさ)えていた事を明かしたのである。全てを理解し、涙を流して彦七のもとを去る千早姫。その腕には宝剣『菊水』がしっかりと抱かれていた。
 「新 歌舞伎十八番 大森彦七」の一場面から。
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九紋龍と花和尚(水滸伝)1955(s30)年
 九紋竜(くもんりゅう)は史 進(ししん)と云い、登場時は18、9歳。精悍な美丈夫で上半身に9匹の青竜を象った見事な刺青があるためあだ名は九紋竜(くもんりゅう)。
 禁軍教頭王進に武芸十八般の教授を受け、特に両刃三尖刀(大刀の刃が三叉に分かれたもの)の使い手である。
 日本では若く刺青を入れているという設定が粋好みの江戸っ子に気に入られたため、江戸時代は武者絵の題材に好まれ「九紋竜」の四股名をもつ力士が現れるほどの人気を博した。
 一方、 花和尚(かおしょう)は魯智深(ろちしん)と云い、花和尚の「花」は刺青を指し、全身に刺青があったことが名前の由来である。柳の木を根っこごと逆さまに引き抜き、素手で山門の仁王像をバラバラに粉砕してしまうほどの怪力の持ち主。少々思慮は浅いが義侠心に厚く困っている人間を見ると自身の利害は関係無しに助けずにはいられない性格で、面倒見が良く、弱いものの味方であった。(前述項の内容を再掲)
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御所の五郎丸と曽我の五郎1956(s31)年
 兄曾我十郎が討ち死にした後、頼朝の寝所に迫ろうとする曾我五郎に後ろから抱きついているのは、なんとも奇妙な格好の武者である。名を「御所の五郎丸」という。
 詞書に「十八歳になりけるが、八十五人が力なり」とある。大変な力持ちで、当然体格もよかったのだろう。その荒武者が、襲撃の報を受けて腹巻(胴だけの鎧)の上に女物の薄衣を被り、髪もゆり下げて待ち伏せをしていた。この画面は、曾我五郎をやり過ごして、後ろからむんずと組み付いた瞬間である。組み付かれている曾我五郎よりも大きい体と無骨な顔立ち、にもかかわらず、髪はゆり下げるというより、稚児(五条の橋で弁慶と出会った時の牛若丸の姿をご想像いただきたい)のように結い上げ、白い薄衣をたなびかせている。曾我五郎は、暗がりでこれを女と見て油断してしまった。
 吾妻鏡に「小舎人童五郎丸」と述べられているこの人物、実在の可能性が高い。「曽我物語」には、御所の五郎丸は京都の出身。比叡山にいたが、十六才のとき師匠の敵を打って京にいられなくなり、東国に下った。すぐれた荒馬乗りで、七十五人の力持ちだったとある。
 女装した荒武者という特異なキャラクター設定と、曾我五郎捕縛のきっかけを作った人物であることから、御所の五郎丸は曽我兄弟の仇討ちにかかせない脇役として、能や歌舞伎の「曽我もの」には、必ずといっていいほど登場する。浮世絵でも、曾我五郎に組み付く御所の五郎丸は画題の一つである。

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勧進帳1957(s32)年
 鎌倉幕府将軍である兄・源頼朝に謀反の疑いをかけられた義経たちは、追われる身となり奥州へ向かっていた。
 道中の加賀国・安宅で、義経一行は自らを捕らえるための関所に行く手を阻まれる。義経は強力の姿、家来たちは山伏の姿に化けて関所を通ろうとするが、関守の富樫左衛門には山伏姿の義経たちを捕らえるよう命令が下されていた。
 そこで武蔵坊弁慶は機転を利かせて、焼失した東大寺を再建するため勧進を行っているのだと話す。すると富樫は、弁慶に勧進帳を読むよう命じるのだった。
 もちろん勧進帳など持っていない弁慶は、別の巻物を開くと、それを本物と見せかけて勧進帳の文言を暗唱してみせた。その後も一行は山伏を演じきり、関所を通る許しを得る。
 しかし、ふとしたことから強力が義経ではないかと疑われてしまった。緊迫した状況のなか、弁慶は義経をどこまでも強力として扱い、杖で打ち据える。それを見た富樫は、頼朝の命を破り、一行を通してやるのだった。

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北川金三郎翁が制作した「電力ねぶた」4台
@1954(s29)年「大森彦七と千早姫」優秀賞
A1955(s30)年「九紋龍と花和尚(水滸伝)」優秀賞、海上運行、運行賞、人気投票1位※
B1956(s31)年「御所の五郎丸と曽我の五郎」優秀賞、海上運行、運行賞、人気投票2位※
C1957(s32)年「勧進帳」特賞、人気投票1位※
詳細は「電力ねぶたの出陣記録」をご覧ください。
※「投票用紙付きの森永のお菓子の人気投票」とは…
「昭和29年から昭和35年まで、森永製菓と東奥日報社が主催し、青森観光協会と青森商工会議所が後援して、ねぶたの人気投票を行った。これは森永キャラメル、チョコレート、ベルベットのサックにねぶた名と投票者の住所・氏名・年齢を記入して、小売店、ネブタ小屋などに備え付けた投票箱に投函するというものであった。」    『青森ねぶた誌』より
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プロジェクトX「ねぶたに蛍光灯が灯る」
ねぶたと蛍光灯照明の革新
 ねぶた祭りの熱気を彩る照明技術は、時代とともに進化してきました。昭和32年、電力ねぶたの「勧進帳」が初めて多くの蛍光灯を胴体部分に使用し、大きな話題となりました。このねぶたは、初代ねぶた名人北川金三郎さんによって制作され、その造形美もさることながら、従来の裸電球に代わって蛍光灯が使われたことで、ねぶたの明るさと迫力が飛躍的に向上したのです。
 当時、動くねぶたに電気を供給することは大きな課題でしたが、電力ねぶたのチームは蓄電池(BATT)とモーター発電機(MG)を組み合わせることで交流発電を実現し、蛍光灯の利用を可能にしました。初めて蛍光灯が点灯された際、そのあまりの明るさに観衆が驚いたという逸話も残っています。

(画像をクリックすると拡大します。)

 いろいろな過去の記録を調べていくと、ねぶたの灯として初めて蛍光灯を採用したのは電力ねぶた「勧進帳」だったことは間違いないようです。しかし、蛍光灯を点灯させるためには交流100Vが必要であり、直流である蓄電池(BATT)のみでは動作出来ないという難題、技術的に高いハードルがありました。
 そして、その難題をどの様にして解決し、実現させたかの詳細な記録が残っていないため、ありったけの記憶を呼び起こし、大胆な仮説を立て推論を試みました。
 とは言っても、当時の青森通信所長ほか(いずれも故人)から聞いた話をもとに、おぼろげな記憶を辿りながらの推定で、多分に私の思い込みがありますので良しなに取り扱い願います。
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【推 論-1】
料理イメージ

 ちょうどその時期、東北電力は日本初のマイクロ無線工事を進めていましたが、仙台〜青森ルートが1955(s30)年10月に官庁検査に合格し開通します。開通を目前にした前年1954(s29)年に青森通信所が開設され、初代の所長:K氏(故人)が着任します。※現在も建物(s29撮影)が残っています。
 K所長は初めての青森勤務でしたが、翌年(s30)のねぶた「九紋龍と花和尚」北川金三郎作に初参加します。もともとお祭り好きな人でしたが、地元出身の所員たちの影響もあり「ねぶた祭」にすっかり嵌ってしまってしまいます。
 当時、通信所の建物は「ねぶた小屋」と同一の構内にありましたので、ねぶた師の北川翁ほか制作関係者とも時々会っていたと思われます。

 通信所は蓄電池(BATT)充電の特命を受け、日夜奮闘していました。そのような中で翁の意向を伺う機会があり、より明るい蛍光灯の採用を提案したのでは無いだろうか。蛍光灯の採用には技術的な裏付けと、業務の中に実機としての電動発電機(MG)を保有していたことが重要なカギとなります。
 K所長が初参加であった1955(s30)年「九紋龍と花和尚」と、2回目の参加となった1956(s31)年「御所の五郎丸と曽我の五郎」を経験した後、北川翁とも近しい関係となり、翁の希望を叶えることとなるMGの使用について提案し、3回目1957(s32)年「勧進帳」の出陣に合せて蛍光灯照明によるねぶたを実現させたのではないだろうか?

【推 論-2】

 蛍光灯は、1955(s30)年、種々の照明器具の開発との相乗効果により、家庭用としても急速に普及し始めました。しかし、まだまだ高価で特殊な照明器具であり、ねぶたの照明として使えるかどうかも未知な存在でした。
 ねぶた照明には円形タイプは振動に弱く、固定方法などに難がありました。まもなく、
直管形の蛍光灯が事務所などに広く普及し始め、1956(s31)年頃からはさらに性能も向上し、低廉な価格で市場に出回るようになります。ちょうど、1957(s32)年の「勧進帳」はグッドタイミングだったと思われます。

【推 論-3】
 当時の記録として残されている「通信月報」によれば、通信用整流器からの蓄電池(BATT)充電は通信所への特命だったと記されています。会社が地域協調の一環として「ねぶた」を出していたことを考えると、通信部門の役割、仕事の一旦として捉えてもなんら不思議ではありません。
 当時、BATTの充電作業に当たった通信所員の話として、「毎晩、徹夜交代で通信用整流器から、多数のBATTへの充電を行ったが、連続監視を怠ると運転中の通信回線に影響を与えかねないので緊張の連続、睡眠不足が続き大変だった。」と書き残されています。
 通信用整流器は、当時としては大型大容量の水銀整流器で、多くの蓄電池を同時に充電できる能力がありました。

 ねぶたはBATTを多数積載し、直流12Vで裸電球を点灯させていましたが、BATTの充電には大変苦労していたようです。各運行団体は、より明るさを求め、BATTを直列や並列にしたり様々な工夫をしていました。しかし、先の項でも述べたとおり、蛍光灯を点灯させるためには、交流(AC100V)が不可欠であり、BATTのみの直流電源では所詮無理なことでした。

 では何故不可能が可能となったのだろうか。それを可能成らしめたのは、当時、青森通信所が保有していた通信機用の電動発電機(MG)です。技術的にも実機的にもほぼ間違いないと思われます。
【結 論】
●一つ目の偶然
 たまたま、青森支店(現在と同じ港町)の同一構内に「ねぶた小屋」と「青森通信所」があったことから、北川翁や制作関係者と所長ほか所員が近しい関係となり、蛍光灯照明について意見交換を行う機会が出来たものと思われます。
●二つ目の偶然
 実機として使えそうな電動発電機(MG)が通信機械室に予備品の在庫として有った。もしくは、既存の電話交換機用信号発生機(MG)に手を加えて利用した。さらにはマイクロ無線建設にあたった、職人的な技術屋が数人在籍し高い技術を持ち合わせていた。
 この様な好条件が偶然にも重なり相乗効果を生み、高いハードルであった交流電源の確保という難題が、一挙に解決し実現したのではないかとの結論に至りました

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通信所が保有していた電動発電機
■上図は、2.2kW電動機−2kW発電機の一例ですが、通信所が保有していたMGは外見や仕様など、ほぼ同じ様な形状でした。
■MGはトランジスターが開発される前、真空管式の通信機器を無停電で稼働させるための、交流電源として使用されていました。
■DC入力は24Vor48V、AC出力は50Hz、100Vor200Vで、現場の状況により切替が可能で した。
■概略形状⇒長さは900mm程度、重さは100kg程度
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息子の北川啓三さん
 「北川のオンチャマ」こと息子啓三氏は、父親の跡を受け継ぐ形でねぶたつくりを手がけ、翁制作の「勧進帳」の翌年から「電力ねぶた」を5台制作しました。


料理イメージ 北川啓三氏は明治38年3月21日にねぶた名人北川金三郎翁の次男として鍛冶町に生まれた。通称「北川のオンチャマ」で、12歳から父についてねぶた作りに加わった。
 また、幼少のときから父の師である坂田金作氏に教えも受けていた。14歳の時には稼業の左官業も取り仕切るようになる。
 大正末頃から東京方面に仕事の修行にいったが、このときに歌舞伎座などで芝居をよく見た。啓三氏は父(金三郎)の代わりにねぶたの大半を作っていた。特に絵には自信をもっていた。
 この父子の仕事内容(どちらが作ったか)にはさまざまな証言があるが、真偽のほどは定かでない。また、どちらのねぶたがすぐれているかもよく論議される。

 啓三氏は芸術家肌のねぶた師であり、人柄も厳しい人であったという。昭和30年代が絶頂期ですぐれたねぶたを次々に生み出していった。昭和37年から制定された第1回田村麿賞は啓三氏の「村上義光吉野の関所」(日本通運)であった。
 しかし、昭和40年代になると賞から遠のいていった。後年になり、彼の残した業績が大きいことから、昭和60年にねぶた名人位が贈られた。晩年には小型ねぶたを作っていたといい、昭和63年に他界されました。※青森ねぶた誌から引用


天の岩戸1958(s33)年
 弟の荒ぶる神、須佐之男命の乱暴ぶりに耐えかね、太陽の神である天照大御神がその身を隠し、天上天下の光は消え災いに満ちた闇夜の世界が訪れた。
 八百万の神々は天安河原に集まり、知恵の神、思金神の名案により天照大御神を天岩戸から呼び戻す作戦を立てることになる。
 天細女命が踊り出すと神々は大笑いし、何事かと岩戸を少し開け外の様子を窺うと、布刀玉命が八咫鏡を差出す。
 鏡に写る目映い光が自分の姿とも知らず身を乗り出した時、力自慢の天手力男神が入り口を塞いでいた岩の戸を投げ飛ばした。
 こうして世界は光を取り戻し平和が訪れたのである。神話の中で描かれている「天岩戸伝説」は、謎が多く諸説あるが、世の平和を望む人々の思いは古代も現代も同じである。


茨木(渡辺綱鬼退治)1959(s34)年
 悪疫の流行や、風水害、大地震などが人々を苦しめた平安時代の中ごろのこと。
 都やその周辺では妖術を使い、財宝を奪い、人をあやめ、鬼神と恐れられていた一団が、日夜を問わず、跋扈(ばっこ)していた。
 源頼光の四天王の一人、渡辺綱は九条の羅生門に鬼神退治に向かい、そこで鬼神茨木童子と相対しその片腕を切り落としたのである。
 しかし、七日のうちに鬼神が取り返しに来るという陰陽師の予言があり、門を閉じ、読経を続けるという物忌みをすることとした。

 満願が成就しようとするまさに七日目の夜、はるばると渡辺綱を伯母が訪ねて来たのである。面会を懇願する伯母に情を動かされ、門を開け招きいれ、親しく話し込むうちに切り取った鬼神の腕に話題は移った。
 伯母に唐櫃(からびつ)に収めていた鬼神の腕を見せたその刹那、伯母は物凄い形相の悪鬼、茨木童子に変化し、「我が腕、取り返したり」と叫ぶや、何処かへと飛び去ったという。

碇知盛1960(s35)年
 壇ノ浦の合戦で功を立てるも、兄頼朝に追われる身となった義経は摂津の国、大物の浦から船で九州へ向かう。そこへ壇ノ浦で死んだはずの平知盛率いる平家軍が現れ海上での戦となるのだが、知盛軍は敗れてしまう。
 平家一門は、父清盛の悪業の報いのため滅亡する運命にあったのだと知盛は悟る。そして碇綱を身に巻きつけて大岩の上に立ち、碇を海に投げ込み、その重みに引かれて海の底へと落ちてゆく。(義経千本桜より)


巌流島の決斗1963(s38)年
 宮本武蔵は、二刀の技を創出した二刀流の元祖として、また「五輪書」を著した智略を用いた兵法を駆使する兵法者として有名である。
 このねぶたは、武蔵の前に立ちはだかる、最初で最後の恐るべき剣豪長刀を振るう燕返しなる必技をもつ巌流佐々木小次郎との宿命的な果し合い、「巌流島の決闘」での激突場面を現したものです。


綱館(つなやかた)1965(s40)年
 羅城門で鬼人茨城童子の片腕を切り取った渡辺綱がそれを唐櫃に入れ、物忌みして誰にも会わず固く門を閉じている所へ伯母の真柴が訪ねてきた。
 一度は拒絶したが肉親の愛に負けて招きいれる。酒宴ののち、思い出に鬼の腕を見せて欲しいと頼まれ仕方なく承知する。
 伯母は隙を伺って腕を奪うや、たちまち悪鬼の正体を現し腕を掴んで黒雲と共に飛び去る。実は伯母は羅城門で腕を切り取られた茨城童子であった。
 『新古演劇十種』に選定されている。

北川啓三さんが制作した「電力ねぶた」5台
@1958(s33)年「天の岩戸」特賞、海上運行
A1959(s34)年「茨木(渡辺綱鬼退治)」審査制度無し、海上運行
B1960(s35)年「碇知盛」審査制度無し、海上運行
C1963(s38)年「巌流島の決斗」田村麿賞、海上運行
D1965(s40)年「綱館(つなやかた)
※詳細は「電力ねぶたの出陣記録」をご覧ください。
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