

北川金三郎は明治13年に鍛冶町の桶屋の三男として生まれた。左官屋を営 み成功した人でもあった。同じ町内の坂田金作についてねぶた作りを学び、若
い頃から自分で製作したといわれる。金三郎は坂田流のねぶたを厳密に踏襲し たというが、それに満足せず既製のものを大きくアレンジすることのできた稀
有な製作者であった。
革新的なねぶた制作
大森彦七と千早姫1954(s29)年
九紋龍と花和尚(水滸伝)1955(s30)年
御所の五郎丸と曽我の五郎1956(s31)年
勧進帳1957(s32)年
北川金三郎翁が制作した「電力ねぶた」4台

ねぶたと蛍光灯照明の革新

ちょうどその時期、東北電力は日本初のマイクロ無線工事を進めていましたが、仙台〜青森ルートが1955(s30)年10月に官庁検査に合格し開通します。開通を目前にした前年1954(s29)年に青森通信所が開設され、初代の所長:K氏(故人)が着任します。※現在も建物(s29撮影)が残っています。
K所長は初めての青森勤務でしたが、翌年(s30)のねぶた「九紋龍と花和尚」北川金三郎作に初参加します。もともとお祭り好きな人でしたが、地元出身の所員たちの影響もあり「ねぶた祭」にすっかり嵌ってしまってしまいます。
当時、通信所の建物は「ねぶた小屋」と同一の構内にありましたので、ねぶた師の北川翁ほか制作関係者とも時々会っていたと思われます。
通信所は蓄電池(BATT)充電の特命を受け、日夜奮闘していました。そのような中で翁の意向を伺う機会があり、より明るい蛍光灯の採用を提案したのでは無いだろうか。蛍光灯の採用には技術的な裏付けと、業務の中に実機としての電動発電機(MG)を保有していたことが重要なカギとなります。
K所長が初参加であった1955(s30)年「九紋龍と花和尚」と、2回目の参加となった1956(s31)年「御所の五郎丸と曽我の五郎」を経験した後、北川翁とも近しい関係となり、翁の希望を叶えることとなるMGの使用について提案し、3回目1957(s32)年「勧進帳」の出陣に合せて蛍光灯照明によるねぶたを実現させたのではないだろうか?
【推 論-2】
蛍光灯は、1955(s30)年、種々の照明器具の開発との相乗効果により、家庭用としても急速に普及し始めました。しかし、まだまだ高価で特殊な照明器具であり、ねぶたの照明として使えるかどうかも未知な存在でした。
ねぶた照明には円形タイプは振動に弱く、固定方法などに難がありました。まもなく、直管形の蛍光灯が事務所などに広く普及し始め、1956(s31)年頃からはさらに性能も向上し、低廉な価格で市場に出回るようになります。ちょうど、1957(s32)年の「勧進帳」はグッドタイミングだったと思われます。
【推 論-3】
当時の記録として残されている「通信月報」によれば、通信用整流器からの蓄電池(BATT)充電は通信所への特命だったと記されています。会社が地域協調の一環として「ねぶた」を出していたことを考えると、通信部門の役割、仕事の一旦として捉えてもなんら不思議ではありません。
当時、BATTの充電作業に当たった通信所員の話として、「毎晩、徹夜交代で通信用整流器から、多数のBATTへの充電を行ったが、連続監視を怠ると運転中の通信回線に影響を与えかねないので緊張の連続、睡眠不足が続き大変だった。」と書き残されています。
通信用整流器は、当時としては大型大容量の水銀整流器で、多くの蓄電池を同時に充電できる能力がありました。
ねぶたはBATTを多数積載し、直流12Vで裸電球を点灯させていましたが、BATTの充電には大変苦労していたようです。各運行団体は、より明るさを求め、BATTを直列や並列にしたり様々な工夫をしていました。しかし、先の項でも述べたとおり、蛍光灯を点灯させるためには、交流(AC100V)が不可欠であり、BATTのみの直流電源では所詮無理なことでした。
では何故不可能が可能となったのだろうか。それを可能成らしめたのは、当時、青森通信所が保有していた通信機用の電動発電機(MG)です。技術的にも実機的にもほぼ間違いないと思われます。
【結 論】
●一つ目の偶然
たまたま、青森支店(現在と同じ港町)の同一構内に「ねぶた小屋」と「青森通信所」があったことから、北川翁や制作関係者と所長ほか所員が近しい関係となり、蛍光灯照明について意見交換を行う機会が出来たものと思われます。
●二つ目の偶然
実機として使えそうな電動発電機(MG)が通信機械室に予備品の在庫として有った。もしくは、既存の電話交換機用信号発生機(MG)に手を加えて利用した。さらにはマイクロ無線建設にあたった、職人的な技術屋が数人在籍し高い技術を持ち合わせていた。
この様な好条件が偶然にも重なり相乗効果を生み、高いハードルであった交流電源の確保という難題が、一挙に解決し実現したのではないかとの結論に至りました。



通信所が保有していた電動発電機 

北川啓三氏は明治38年3月21日にねぶた名人北川金三郎翁の次男として鍛冶町に生まれた。通称「北川のオンチャマ」で、12歳から父についてねぶた作りに加わった。
天の岩戸1958(s33)年
茨木(渡辺綱鬼退治)1959(s34)年
碇知盛1960(s35)年
巌流島の決斗1963(s38)年
綱館(つなやかた)1965(s40)年
北川啓三さんが制作した「電力ねぶた」5台