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電力ねぶたの歴史をたどります。

各年のねぶたはこちらからご覧ください。

出陣の足跡

電力ねぶたの足跡dish



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この年(s42)の電力ねぶた《岩見重太郎「狒狒退治」》に初参加、南部生れの津軽衆となりました。(^_^;)
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(下表各年をクリックするとねぶたが表示されます。)

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電力ねぶたの変遷
 戦前から昭和25年まで,東北電力(株)は青森電燈(株)としてねぶた祭に参加していました。現在の『何年賞』というのは,戦後のねぶた復活と同時に制定されたものです。
 東北電力(株)は,昭和22年に「青森港まつり」の一環としてねぶたの運行が再開された翌年から出陣しました。昭和23〜25年と3年連続して参加した後,昭和26年,青森電燈(株)は東北電力(株)青森支店として新たに発足し再出発しました。この年から昭和28年まではねぶたへの参加を見合せました。
 昭和29年からは再び出陣することとなり,地域社会との一体感を醸成し,ねぶた祭に貢献してきました。この間に「青森港まつり」は「青森ねぶた祭り」と改称されました。昭和37年,それまで『優秀』『佳良』などと呼ばれていた賞名が,『田村麿賞』『知事賞』『市長賞』と改められました。
 そして,昭和38年の「巌流島の決闘」(北川啓三作)は田村麿賞に輝き,昭和43年の「源頼光と坂田公時」(山内岩蔵作)は製作賞を受賞しました。
 昭和48年から昭和58年までの11年間は,諸般の事情からねぶた参加を取止めていましたが,昭和59年「東北電力ねぶた愛好会」が発足し,復活ねぶた第一号『天女祝舞』が不死鳥のごとく勇壮華麗に舞い踊ったのです。それからは毎年休むことなく出陣を重ね,今年(令和6年)で55回目の出陣となります。
 新型コロナの感染拡大により令和2年と令和3年夏のねぶた祭りは中止となりました。このような状況の中、今年(令和6年)こそはいつもどおりの「青森ねぶた祭」が戻ってきてくれることを心待ちにしています。
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電力ねぶたを創ったねぶた師
九紋龍と花和尚(水滸伝)
 昭和30年(1955)、東北電力は北川金三郎作による『九紋龍と花和尚(水滸伝)』で5回目のねぶた出陣を行った。このねぶたは、人気投票一位(後の田村麿賞、現在のねぶた大賞)に輝き、海上運行を行っています。
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 前年の『大森彦七と千早姫』に続き、北川金三郎の電力ねぶた2作目となり、その後も金三郎翁の作が続きました。
 そして息子
北川啓三の製作へと受け継がれることとなります。
 既にこの頃から、親子が一緒になって、ねぶたの制作に取り組み、独特の作風を磨き、父(師匠)から息子(弟子)へと技を伝承していたようです。
 九紋龍(竜)と花和尚は中国の小説『水滸伝』の登場人物で、よく青森ねぶたや弘前ねぷたの題材にも取上げられています。
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[題材の云われは]
 九紋竜(くもんりゅう)は史 進(し しん)と云い、登場時は18、9歳。精悍な美丈夫で上半身に9匹の青竜を象った見事な刺青があるためあだ名は九紋竜(くもんりゅう)。
 禁軍教頭王進に武芸十八般の教授を受け、特に両刃三尖刀(大刀の刃が三叉に分かれたもの)の使い手である。
 日本では若く刺青を入れているという設定が粋好みの江戸っ子に気に入られたため、江戸時代は武者絵の題材に好まれ「九紋竜」の四股名をもつ力士が現れるほどの人気を博した。
 一方、 花和尚(かおしょう)は魯 智深(ろ ちしん)と云い、花和尚の「花」は刺青を指し、全身に刺青があったことが名前の由来である。
 柳の木を根っこごと逆さまに引き抜き、素手で山門の仁王像をバラバラに粉砕してしまうほどの怪力の持ち主。
 少々思慮は浅いが義侠心に厚く困っている人間を見ると自身の利害は関係無しに助けずにはいられない性格で、面倒見が良く、弱いものの味方であった。
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最高傑作『勧進帳』
 明治の柿崎琴章は歌舞伎の役者絵師で、歌舞伎の場面をねぶたに導入したといわれている。
 大正は坂田金作、昭和初期は版画家の故棟方志功から達人といわれたのは棟方忠太郎だそうだ。
 この三者の流れを受け継ぎ、今日の青森ねぶたの型を作ったのが北川金三郎で、骨組みは胴体、腕などをカゴ風に別個に組み、それを合体させるものであった。昭和32年に制作した「勧進帳」(東北電力)はねぶた史上最高の作品と評価されている。昭和34年、青森観光協会は「ねぶた名人」の称号を贈っている。
 同じく、荒川出身の川村勝四郎(昭和25年電力ねぶた初陣『壇之浦合戦』制作:川村伯鳳)は柿崎琴章の流れを保ち、色調、隈取りは歌舞伎的で、骨組みは人形の外枠を一から組み、筋肉を誇張する度合いが大きい。 また、千葉作太郎も隈取り、色付け、模様が歌舞伎的で、柿崎琴章の流れを受け継いでいた。
 北川金三郎の子息故北川啓三も二代目北川といわれ、昭和61年「ねぶた名人」が贈られた。北川親子の功績は大きい。
 北川系として北川親子に直接師事した故佐藤伝蔵(平成2年ねぶた名人受贈)、川村系として荒川出身の故鹿内一生(平成3年ねぶた名人受贈)、千葉系として子息の千葉作龍は最近まで現役として活躍していたが、令和4年(2022)年5月に引退を発表した。
 電力ねぶたは、昭和59年復活以降、故鹿内一生が制作を受け、昭和62年は一戸意生、昭和63年から平成14年までは穐元和生、平成15年から穐元鴻生と、故鹿内一生が主宰する「我生会」(がしょうかい)が制作している。
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