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電力ねぶたの歴史をたどります。

各年のねぶたはこちらから↓

出陣の足跡

初体験の青森ねぶたdish


初体験の青森ねぶた
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 私が初めて『青森ねぶた』を見たのは昭和42年の夏、4月に新入社員として八戸市内の職場に配属されて数か月後(まだ18歳)でした。
 配属先には津軽出身の先輩が大勢おり、日常的に津軽弁が飛び交う職場、ミニ津軽でした。祭りが近づくにつれ、必然的に話題も「青森ねぶた」の話になり「電力ねぶた」の素晴らしさもよく聞かされました。
 そんな中、青森出身で寮が同室の先輩から誘われて、お祭りに初参加、先輩の実家に泊めて貰うこととなりました。当日は(日にちは失念)雲一つない快晴、ものすごく暑い熱帯夜だった記憶が蘇ります。

昭和42年夏の運行風景 このねぶたは『市長賞』を受賞しました。
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温泉イメージ いきなりの参加となった『青森ねぶた』は、八戸/南部地方には無い爆発的な祭りで、眩しいばかりの灯りと、体中に響く囃子と、跳ね人の『ラッセラー、ラッセラー』とのでかい声、乱舞、、度肝を抜かれるとはこんな事かと感動を覚えました。南部生まれの私には、今まで見たこともない迫力と驚きでした。(まさしく仰天!)
 その後間もなく青森市に転勤することなり、南部生まれの津軽衆となりました。そして、たまたまひょんなことから、以降に紹介する復活ねぶた『天女祝舞』(s59年)の復活委員の一人として深く関わることとなり、気が付いたときには、津軽生活イコールねぶたになっておりました。(三度の青森勤務、通算25年間は思い出深い津軽生活です。)

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昭和43年夏の『ねぶた祭ポスター』に採用
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 昭和42年(1967)夏に出陣した電力ねぶたは『岩見重太郎狒狒(ひひ)退治』山内岩蔵作で、『市長賞』を受賞し、翌年、昭和43年(1968)夏の『ねぶた祭りのポスター』(上の写真)採用されました。
 ちょうど、私が新入社員として八戸市内の事業所に配属された年の出陣ねぶたでした。たまたま寮で同室だった先輩の実家が青森市でしたので、誘われるがままに初めてねぶた祭りに参加させて貰うこととなりました。
 青森市の実家は、ねぶた祭りに参加するために帰省している兄妹の皆さんで大変賑やかな状況でしたが、混み合う家族の皆さんの中に割り込み、衣装の準備・着付けをして貰った上に、お祭りから戻った深夜には、お酒・お料理を御馳走になり満腹就寝。
 結果的に2晩もお世話になりましたが本当に有難うございました、、m(_ _)m




『ねぶた祭ポスター』の部分拡大
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ポスターの中ほどに、どこかでお会いした顔、見覚えのある顔が写っています。私も一緒の職場(送電)でしたので、とても懐かしい記念写真となりました。

入社当時(s42)の青森支店
(ねぶた小屋は建物脇の空き地にありました。)
 昭和9年4月青森県は青森電灯(明治30年3月開業)、弘前電灯(明治34年6月開業)、八戸水力電気(明治44年6月開業)を統合し、青森県営電気局を開業しました。
 青森電燈(株)は明治29年〜昭和9年まで続きましたが、昭和9年に「青森県電気局」に統合されま
した。
 もともと青森電燈の社屋は、堤川沿いの(現在の)社会保険センターのところにありましたが、その後、現在の青森支店の場所へ移転しました。
 そして
、昭和17年4月の第一次配電統合により、青森県営電気局は「東北配電株式会社」に統合されることとなります。
 その後、昭和26年5月電気事業再編成により、東北配電株式会社と日本発送電株式会社(東北7県エリア部分)が統合され。「東北電力株式会社」が発足しました。

青森電燈社屋/旧青森支店の絵画
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 この絵は、今純三氏(略歴は下記)が、東北電力青森支店の前身である青森電燈社屋を描いたもの(1934/s9年作)です。
 今も、東北電力青森支店の玄関ロビーに掲示されていますので、ぜひ実物をご覧ください。
(絵画サイズ:縦162cm、横112cm、P100号)
絵画の解説
 青森電燈の社屋は、堤川沿いの社会保険センターのところにありましたが、その後、現在の青森支店の場所へ移転しました。絵画中の人物は、右から青森電燈(株)社?の大坂金助氏、電気主任技術者の加藤桃太郎です。
 青森電燈当時は、毎月15日が停電の日と決められており、停電の日には、絵画にあるように大坂社?が直接現場に出向いて監督していたそうです。
 青森電燈(株)は、明治29年〜昭和9年まで続きましたが、昭和9年に青森県電気局に統合されました。
 この絵画が昭和9年に作られたことを見れば、電気局に統合されることを記念して、今純三氏に描かせたものと推測されます。


今純三(こんじゅんぞう)
1893〜1944年(明治26〜昭和19)。洋画家。弘前市生まれ。
1906年(明治39)東京市立独乙協会学校中学部に入り1909年(明治42)頃から太平洋画会や葵橋洋画研究所で絵を学ぶ。
1912年(明治45)本郷絵画研究所に入り岡田三郎助に師事。第7回文展に油絵『公園の初秋』入選。この頃白馬会などにも出品。
1919年(大正8年)第1回帝展に入選。代表作『バラライカを弾く男』『追良瀬風景』著書『版画の新技法』作者である今純三氏は大正末期から銅版画の研究に着手し、これを独自に発展させて多くの優れた作品を残し、その業績は、複製や実用印刷物などに利用されていた銅版画を美術として完成させた人物として高く評価されている。    (青森県百科事典より一部引用)
直線上に配置
青森電気発祥の地

 青森県に初めて電気のあかりが灯されたのは明治30年1月24日,青森市の堤川ほとり(当時の青森町大字浪打1番地)でした。

 大坂金助氏,渡邊佐助氏らが創設した青森電灯株式会社の小さな火力発電で灯された。1200燭光のアーク灯の輝きは,当時の人々に大きな驚きと感動を与えました。
 電気は当初,付近の商店や問屋,第5連隊の兵営など151戸に供給されました。爾来100年,常に「郷土あおもりの発展とロマン」を求めて灯し続けられてきました。
平成9年3月25日(電気記念日) 寄贈 東北電力株式会社

昔々の電力ねぶた
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(昭和25年)

(昭和29年)

(昭和30年)

(昭和31年)

(昭和32年)

(昭和33年)

(昭和34年)

(昭和35年)

(昭和38年)

(昭和40年)

(昭和42年part-1)

(昭和42年part-2)

(昭和42年part-3)

(昭和43年)

(昭和45年)

(昭和47年)


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