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電力ねぶたの歴史をたどります。

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出陣の足跡

「電力ねぶた復活」を語るdish


「電力ねぶた復活」を語る
 2017年夏に電力ねぶたは50回目の出陣を迎えました。ここに至るまではいくつかの物語があるわけですが、「活動休止から12年の電力ねぶた復活」について、東北電力ねぶた愛好会初代会長の須藤健夫さんが電気新聞の取材を受け、インタビューの中で復活当時の状況を語っています。
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料理イメージ
【2017年7月28日付電気新聞から】

記者⇒東北電力の青森ねぶた祭への出陣は今年で50回目を迎える。11年の活動休止を経て84年に「東北電力ねぶた愛好会」として復活しているが、活動休止から再会に至る経緯は。

須藤さん⇒ねぶたを愛する社員が中心となり出していたが、オイルショックの影響で会社は資金の拠出が難しくなり、73年から出陣を控えるようになった。
 ところが活動を休止している間も、「電力ねぶたが見たい」という声がしばしば耳に入ってきた。復活への期待感を感じていた。 復活の機運が高まったのは83年。田村潤一支店長(当時)にねぶた復活を申し出たところ、田村支店長からは「祭とは地域に密着したもの。地域の社員一人ひとりが力を合せて自力でやらなければ成功しない」との答えが返ってきた。
 私が復活に向けた発起人会への参加を呼び掛けると、即座に40人程度が応じ、「これならいける」と感じた。
 その後、正式に愛好会という形で会員を募ると500人以上が集まり、翌年の84年には県内の全事業所に広がった。

記者⇒ねぶたを復活させるためには資金やねぶた師の確保など苦労した点が多くあったのでは。
須藤さん⇒当時のねぶた制作費は1千万円超。まずは会員に衣装代を含む会費を募った。関係企業や取引先、地元商店などからも協賛金を募集。青森勤務経験者からも広く資金を集めた。その結果、ねぶた制作費に必要な資金を集めることができた。
 ねぶた師は、知り合いの鹿内一生先生にお願いした。先生は「作りたいものを作らせてもらえるなら」と応じてくれた。出来上が゛ったのは、青森ねぶたでは珍しい天女。みな驚いたが、天女には電力ねぶた復活を祝う意味が込められていた。

記者⇒電力ねぶた復活の反響は。

須藤さん⇒「天女祝舞」による電力ねぶたの復活は、地元に歓迎され評判を呼んだ。衣装やマナーを守った運行が評価され。その年に設立された運行賞を受賞。翌年も連続で同賞を受賞し、ねぶた祭が大型化・観光化する中でマナーや統制のあり方良い影響を与えることが出来た。90年には穐元和生作「風雲児信長」で田村麿賞(現在のねぶた大賞)を受賞した。

記者⇒出陣50回目にあたって会員にメッセージを。

須藤さん⇒電力小売り自由化という本格的な競争の時代を迎えたいま、東北電力はより地域に溶け込み、存在感を示すことが大事。青森ねぶた祭の県内外に広く伝えてほしい。

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復活ねぶた「天女祝舞」

昭和59年出陣 『天女祝舞』
 『電力ねぶた』はオイルショックの影響をもろに受け、昭和48年(1973)から出陣を取止めておりました。そして、11年もの長い歳月を経て、昭和59年(1984)に、ねぶた好き仲間の手で復活することとなりました。
 ゼロからのスタート、ねぶた製作の初年度は1,200万円もの資金が必要といわれます。そんな中、ねぶた好き幹事連の熱意が広く仲間達、OBの皆さんに伝わり、その会員は800名を超え、多くのカンパが集まったのであります。v(^_^)v
 昔青森市に勤務したことが有るというだけでカンパ要請を受け、快く二つ返事で万札を寄付してくれる他県出身の皆様も多かったと記憶しています。ちなみに、会費は正会員会費1万円,賛助会員5千円でした。

 このようにして復活した『電力ねぶた』は、毎夜その日の片付けが終わる遅くまで、会員総出で運行されました。
 台車、太鼓、半纏、などすべてが新調され、さらには個々人の花笠・浴衣やカガシコ・鈴の小物に至るまで真新しく、晴れ晴れしい復活でした。
 しかし、にわか仕立ての曳行でノウハウが少ないこともあり、途中で発電機トラブル(酸欠停止)で停電。こともあろうに、電気屋のねぶたが故障停電に見舞われるハプニングも発生!でした。(^_^;)
 祭りの大御所/桜庭四郎さんの雨降りビニール掛け技は、見事としか言いようが有りませんでした。祭りが終わり港町の小屋までの戻り路は、石森橋(太鼓橋)を上れずに、仕事で残っている人達を非常呼集したり、暗がりの幅狭い道で街路樹枝へ引っ掛けてしまい、ねぶたが破れ徹夜の修理などなど、上手くいったり失敗したりの試行錯誤、はらはらドキドキの運行七日間でした。

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