鹿内一生さんの本名は勝男で、大正14年,旧荒川村に農家の三男として生まれた。小学生の頃からねぶたを作り始める。最初は東京で就職したが事情により帰郷し、さまざまな職についたが肺結核を患う。この間絵の勉強をしている。
本格的なねぶた作りに手を染め出したのは戦後まもなくからであった。同郷の川村伯鳳さんに手伝ってねぶたを作ったのは一回だけだったが、一生は伯鳳さんを師匠としている。
24歳のとき青森市漁協に勤務するが、ねぶた師としての道をめざして退職し、他の仕事で食いつなぎながらねぶたを作り続け、昭和40年に消防第三分団に組の「三国志呂布関羽奮闘の場」で田村麿賞の栄誉に輝いた。
次いで44年から3年間田村麿賞を独占する。特に45年の「項羽の馬投げ」(青森市役所)は今でも語り草だという。しかし、肺結核が再発し、ねぶた作りも思うにまかせなかった。
一生さんの業績のひとつは弟子の育成であった。「我生会」はそういう弟子の集まりである。自分のねぶたを次第に弟子たちに譲り一人立ちさせていった。
平成元年まで県庁のねぶたを作ったがこれが最後であった。平成3年に逝去。
【青森ねぶた誌(平成12年3月31日発行)から】
(下の写真をクリックすると拡大します。)
東北電力のねぶたは、それまで毎年出陣していたねぶたを、昭和47年を最後に運行を見合わせることとなった。それは世に言う「オイルショック」、経済混乱の大不況であり、電気事業にとっては事業継続と存亡に関わる危機的な状況であった。ねぶたどころの騒ぎではない時代でした。
その後11年の歳月が流れ、(関係者のみが知る)ある切欠と、参加者自らが運行資金を出し合う会員制でやってみようということになり、めでたく昭和59年の夏に復活することとなりました。
復活ねぶたは鹿内一生さんによる「天女祝舞」で、一生さんが長年温めていた題材とのことでした。出来上がったねぶたは、これまでの概念を打ち破る、奇抜なもので皆々驚かされた。
復活後は連続3年、鹿内一生さん製作による「電力ねぶた」が運行され、昭和59年(運行賞/市長賞)、昭和60年(運行賞/市長賞)、昭和61年(跳人賞/市長賞)と連続して賞を受賞しました。
復活当時の「電力ねぶた」は“参加者全員が花笠着用が必須”で、運行も整然としているという事で、審査員・観客衆の高い評価を受け受賞することとなりました。
【電力ねぶたの受賞履歴】
(下絵のサムネテルをクリックすると出陣年の詳細にジャンプします。)
【昭和59年】 |
【昭和60年】 |
【昭和61年】 |