本文へスキップ

電力ねぶたの歴史をたどります。

各年のねぶたはこちらから↓

出陣の足跡

昔々の電力ねぶたdish


昔々の電力ねぶた
1950(s25)年出陣『壇ノ浦合戦』川村伯鳳 作
(画像をクリックすると拡大します。)


 この写真は、「電力ねぶた」の記録として残されている最も古い写真です。
[題材の云われ]

 1185年(寿永4年)のこの日、長門国赤間関(現:山口県下関市)の壇ノ浦で源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」が行われた。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。最終的に、平氏は源義経を総大将とする源氏の軍に敗れ、安徳天皇と二位尼(平時子)は三種の神器と共に入水、総大将の平宗盛も捕らえられ、栄華を誇った平家は滅亡した。

 日本史上、最大規模の海戦の一つであり、この戦いにより6年間に渡る大規模な内乱は一応の幕を閉じた。また、この戦いで平氏政権が崩壊したことにより、同年に源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士により鎌倉幕府が設立された。
直線上に配置
1954(s29)年出陣『大森彦七と千早姫』北川金三郎 作
(画像をクリックすると拡大します。)


[題材の云われ]
 南北朝時代。湊川の戦いで南朝側の名将 楠木正成を討ち取った大森彦七は、その後、自分の領地である四国 伊予(現在の愛媛県)に戻っていた。

 ある日、彦七は自らが能を舞うため、仲間の侍らと共に寺の能舞台へ向うが、その道中、舞台鑑賞を望む娘と出会い同行を許す。
 だが、この娘の正体は楠木家の宝剣『菊水』を取り戻し、父の仇を討つため近づいてきた正成の娘、千早姫であった。
 増水した川にさしかかり、彦七は娘を背負って渡るが、途中で背後から鬼女の面を被り恐ろしい鬼へと姿を変えた千早姫が襲いかかって来た。争いの中で正体を見破った彦七は、千早姫から誤解を受けている事を知り、真実を語る。
 楠木の本陣に攻め入ると、既に正成は切腹直前であったが、武士の礼を尽くして最期を見届け感謝された事、そこに残された刀を宝剣と知らず携(たずさ)えていた事を明かしたのである。全てを理解し、涙を流して彦七のもとを去る千早姫。その腕には宝剣『菊水』がしっかりと抱かれていた。
 「新 歌舞伎十八番 大森彦七」の一場面から。
直線上に配置
1955(s30)年出陣『九紋龍と花和尚(水滸伝)』北川金三郎 作
(画像をクリックすると拡大します。)


[題材の云われ]
 九紋竜(くもんりゅう)は史進(ししん)と云い、登場時は18〜9歳。精悍な美丈夫で上半身に9匹の青竜を象った見事な刺青があるためあだ名は九紋竜(くもんりゅう)。
 禁軍教頭王進に武芸十八般の教授を受け、特に両刃三尖刀(大刀の刃が三叉に分かれたもの)の使い手である。
 日本では若く刺青を入れているという設定が粋好みの江戸っ子に気に入られたため、江戸時代は武者絵の題材に好まれ「九紋竜」の四股名をもつ力士が現れるほどの人気を博した。
 一方、 花和尚(かおしょう)は魯智深(ろちしん)と云い、花和尚の「花」は刺青を指し、全身に刺青があったことが名前の由来である。
 柳の木を根っこごと逆さまに引き抜き、素手で山門の仁王像をバラバラに粉砕してしまうほどの怪力の持ち主。
 少々思慮は浅いが義侠心に厚く困っている人間を見ると自身の利害は関係無しに助けずにはいられない性格で、面倒見が良く、弱いものの味方であった。
直線上に配置
1956(s31)年出陣『御所の五郎丸と曾我の五郎』北川金三郎 作
(画像をクリックすると拡大します。)


[題材の云われ]
 兄曾我十郎が討ち死にした後、頼朝の寝所に迫ろうとする曾我五郎に後ろから抱きついているのは、なんとも奇妙な格好の武者である。名を「御所の五郎丸」という。

 詞書に「十八歳になりけるが、八十五人が力なり」とある。大変な力持ちで、当然体格もよかったのだろう。その荒武者が、襲撃の報を受けて腹巻(胴だけの鎧)の上に女物の薄衣を被り、髪もゆり下げて待ち伏せをしていた。
 この画面は、曾我五郎をやり過ごして、後ろからむんずと組み付いた瞬間である。組み付かれている曾我五郎よりも大きい体と無骨な顔立ち、にもかかわらず、髪はゆり下げるというより、稚児(五条の橋で弁慶と出会った時の牛若丸の姿をご想像いただきたい)のように結い上げ、白い薄衣をたなびかせている。曾我五郎は、暗がりでこれを女と見て油断してしまった。
 吾妻鏡に「小舎人童五郎丸」と述べられているこの人物、実在の可能性が高い。「曽我物語」には、御所の五郎丸は京都の出身。比叡山にいたが、十六才のとき師匠の敵を打って京にいられなくなり、東国に下った。すぐれた荒馬乗りで、七十五人の力持ちだったとある。
 女装した荒武者という特異なキャラクター設定と、曾我五郎捕縛のきっかけを作った人物であることから、御所の五郎丸は曽我兄弟の仇討ちにかかせない脇役として、能や歌舞伎の「曽我もの」には、必ずといっていいほど登場する。浮世絵でも、曾我五郎に組み付く御所の五郎丸は画題の一つである。
直線上に配置
1957(s32)年出陣『勧進帳』北川金三郎 作
(画像をクリックすると拡大します。)


[題材の云われ]
 鎌倉幕府将軍である兄・源頼朝に謀反の疑いをかけられた義経たちは、追われる身となり奥州へ向かっていた。
 道中の加賀国・安宅で、義経一行は自らを捕らえるための関所に行く手を阻まれる。義経は強力の姿、家来たちは山伏の姿に化けて関所を通ろうとするが、関守の富樫左衛門には山伏姿の義経たちを捕らえるよう命令が下されていた。
 そこで武蔵坊弁慶は機転を利かせて、焼失した東大寺を再建するため勧進を行っているのだと話す。すると富樫は、弁慶に勧進帳を読むよう命じるのだった。
 もちろん勧進帳など持っていない弁慶は、別の巻物を開くと、それを本物と見せかけて勧進帳の文言を暗唱してみせた。その後も一行は山伏を演じきり、関所を通る許しを得る。
 しかし、ふとしたことから強力が義経ではないかと疑われてしまった。緊迫した状況のなか、弁慶は義経をどこまでも強力として扱い、杖で打ち据える。それを見た富樫は、頼朝の命を破り、一行を通してやるのだった。

直線上に配置
1958(s33)年出陣『天の岩戸』北川啓三 作
(画像をクリックすると拡大します。)


[題材の云われ]
 弟の荒ぶる神、須佐之男命の乱暴ぶりに耐えかね、太陽の神である天照大御神がその身を隠し、天上天下の光は消え災いに満ちた闇夜の世界が訪れた。
 八百万の神々は天安河原に集まり、知恵の神、思金神の名案により天照大御神を天岩戸から呼び戻す作戦を立てることになる。
 天細女命が踊り出すと神々は大笑いし、何事かと岩戸を少し開け外の様子を窺うと、布刀玉命が八咫鏡を差出す。
 鏡に写る目映い光が自分の姿とも知らず身を乗り出した時、力自慢の天手力男神が入り口を塞いでいた岩の戸を投げ飛ばした。
 こうして世界は光を取り戻し平和が訪れたのである。神話の中で描かれている「天岩戸伝説」は、謎が多く諸説あるが、世の平和を望む人々の思いは古代も現代も同じである。

直線上に配置
1959(s34)年出陣『茨木(渡辺綱鬼退治)』北川啓三 作
(画像をクリックすると拡大します。)


[題材の云われ]
 悪疫の流行や、風水害、大地震などが人々を苦しめた平安時代の中ごろのこと。

 都やその周辺では妖術を使い、財宝を奪い、人をあやめ、鬼神と恐れられていた一団が、日夜を問わず、跋扈(ばっこ)していた。
 源頼光の四天王の一人、渡辺綱は九条の羅生門に鬼神退治に向かい、そこで鬼神茨木童子と相対しその片腕を切り落としたのである。
 しかし、七日のうちに鬼神が取り返しに来るという陰陽師の予言があり、門を閉じ、読経を続けるという物忌みをすることとした。

 満願が成就しようとするまさに七日目の夜、はるばると渡辺綱を伯母が訪ねて来たのである。面会を懇願する伯母に情を動かされ、門を開け招きいれ、親しく話し込むうちに切り取った鬼神の腕に話題は移った。
 伯母に唐櫃(からびつ)に収めていた鬼神の腕を見せたその刹那、伯母は物凄い形相の悪鬼、茨木童子に変化し、「我が腕、取り返したり」と叫ぶや、何処かへと飛び去ったという。

(画像をクリックすると拡大します。)

 この写真は支店前のねぶた小屋の前で撮影したものです。石森橋側から合浦公園に向かって撮影したもので、西日に照らされてとても明るく写っています。(初代青森通信所長:小山幹一郎さん提供)
 当時、ねぶたの照明は大型トラック用のバッテリーを何個も使い、裸電球を灯していました。夜9時、ねぶたの曳行が終わるころにはバッテリーの蓄電量はほぼ無くなり、暗闇の中を灯の消えたねぶたを支店前の小屋まで曳航班に曳かれながら戻っていました。
 大量に積み込まれたバッテリー(鉛蓄電池)はとても重くて往復の石森橋(太鼓橋)を越えるにはとても難儀しました。特に帰りの曳き手は人数が減り、仕事や当直で残っている人たちに非常呼集を掛けてやっとの思いで橋を乗り越えたものでした。この状態は1984年(s59)の復活ねぶた以降も全く変わりませんでした。
 ねぶたが戻ってからのバッテリー充電作業は通信所員が分担し、支店裏にあった通信所機械室まで運び、徹夜の充電作業となりました。この作業は通信所員が毎晩交代で行っていました。
 間もなく蛍光灯が実用化され、1955年(s30)頃からは100Vでも使えるようになり、一般家庭にも普及し始めます。「ねぶた誌」によると、ねぶたの照明に蛍光灯を採用したのは「電力ねぶた」だったとの記述があり、北川金三郎翁の時代に初めて導入された様で当時としては画期的な技術でした。
 蛍光灯の導入により、ねぶたの照明は格段に明るくなり、観衆を驚かせたという逸話も残っています。 しかし、蛍光灯を灯すためにはバッテリーの直流ではダメであり、ここでも通信所員のアイディアが生かされることとなります。

 可能にした技術は?⇒通信所が保有していた特殊な小型発電機MG(motor to generator)でした。MGは今でいうDC/ACコンバーター、直流モーターで発電機を回し交流100Vを得るという通信機用の小型の発電機でした。特殊な小型発電機ですが、あちこちの通信機械室に設置され、通信機器や電話交換機の電源として用いられていました。
 そんなアイディアを思い付いたのは、ねぶた大好きな通信屋(電話職人)だったことは間違いありません。近年は低騒音の交流発電機や省電力で環境に配慮したLED照明への移行が進んでおりますが、「ロウソク〜裸電球〜蛍光灯〜LED」へ灯りの移り変わり「灯篭の歴史」を振り返ることも忘れてはいけません。
直線上に配置
1960(s35)年出陣『碇知盛』北川啓三 作


(画像をクリックすると拡大します。)

[題材の云われ]
 壇ノ浦の合戦で功を立てるも、兄頼朝に追われる身となった義経は摂津の国、大物の浦から船で九州へ向かう。そこへ壇ノ浦で死んだはずの平知盛率いる平家軍が現れ海上での戦となるのだが、知盛軍は敗れてしまう。
 平家一門は、父清盛の悪業の報いのため滅亡する運命にあったのだと知盛は悟る。そして碇綱を身に巻きつけて大岩の上に立ち、碇を海に投げ込み、その重みに引かれて海の底へと落ちてゆく。(義経千本桜より)

直線上に配置
1963(s38)年出陣『巌流島の決斗』北川啓三 作
(画像をクリックすると拡大します。)


[題材の云われ]
 宮本武蔵は、二刀の技を創出した二刀流の元祖として、また「五輪書」を著した智略を用いた兵法を駆使する兵法者として有名である。
 このねぶたは、武蔵の前に立ちはだかる、最初で最後の恐るべき剣豪長刀を振るう燕返しなる必技をもつ巌流佐々木小次郎との宿命的な果し合い、「巌流島の決闘」での激突場面を現したものです。
直線上に配置
1965(s40)年出陣『綱館(つなやかた)』北川啓三 作
(画像をクリックすると拡大します。)


[題材の云われ]
 羅城門で鬼人茨城童子の片腕を切り取った渡辺綱がそれを唐櫃に入れ、物忌みして誰にも会わず固く門を閉じている所へ伯母の真柴が訪ねてきた。

 一度は拒絶したが肉親の愛に負けて招きいれる。酒宴ののち、思い出に鬼の腕を見せて欲しいと頼まれ仕方なく承知する。
 伯母は隙を伺って腕を奪うや、たちまち悪鬼の正体を現し腕を掴んで黒雲と共に飛び去る。実は伯母は羅城門で腕を切り取られた茨城童子であった。
 『新古演劇十種』に選定されている。
直線上に配置
1967(s42)年出陣『岩見重太郎 狒狒(ひひ)退治』山内岩蔵 作
(画像をクリックすると拡大します。)

[題材の云われ]
 岩見重太郎(いわみじゅうたろう)は、父の仇討ちのため旅に出たが道中負傷し、通りがかりの村人の家で介抱された。数日で回復し、村人も喜んだが、どこか笑顔に陰りがある。
 問うと、山奥の神社の神様が、毎年若く美しい娘の家に白羽の矢を立て、そこに住む娘は箱に入れて捧げねばならないという。もし背けば、村には大きな災いが起きる。今年はこの家に矢が立ったので、準備の最中だというのだ。
 重太郎は「神が人を犠牲にするものか!」と怒り、『神様』の正体を暴くべく、自らが娘の着物を被って箱に入った。村人たちはその箱を神社へと運び込む。
 静寂な時が過ぎる中、フクロウの声と共に怪しい気配と異様なまでの生臭さを感じ取った。そっと蓋が開いた次の瞬間、被っていた着物が勢いよく剥ぎ取られた。
 すかさず飛び出た重太郎の眼には、赤ら顔で鬼のように巨大な狒々(ひひ)が映った。奇声を上げながら襲い掛かってくる沸々に、重太郎は得意の剣術で立ち向かった。一進一退、長い激闘だった。
 翌朝、狒々退治の知らせを聞いた村人たちは歓喜し、何度も何度も礼を述べていた。その声を背に、重太郎は本懐を遂げるべく、旅路を急ぐのであった。
 大坂夏の陣、豊臣軍で真田幸村らと共に戦い名を馳せた武将、薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)若かりし頃の武勇談である。
 未知なるものへ恐れず挑み、巨悪を退治した重太郎の姿に、争いや災いの無い平和な世が永く続くことを祈り願う

1968年(s43)夏の『ねぶた祭ポスター』に採用
(画像をクリックすると拡大します。)

 昭和42年(1967)夏に出陣した電力ねぶたは『岩見重太郎狒狒(ひひ)退治』山内岩蔵作で、『市長賞』を受賞し、翌年、昭和43年(1968)夏の『ねぶた祭りのポスター』(上の写真)採用されました。
 ちょうど、私が新入社員として八戸市内の事業所に配属された年の出陣ねぶたでした。たまたま寮で同室だった先輩の実家が青森市でしたので、誘われるがままに初めてねぶた祭りに参加させて貰うこととなりました。
 青森市の実家は、ねぶた祭りに参加するために帰省している兄妹の皆さんで大変賑やかな状況でしたが、混み合う家族の皆さんの中に割り込み、衣装の準備・着付けをして貰った上に、お祭りから戻った深夜には、お酒・お料理を御馳走になり満腹就寝。
 結果的に2晩もお世話になりました。ほんとうに有難うございました、、m(_ _)m


直線上に配置
1968(s43)年出陣『源頼光と坂田公時』山内岩蔵 作
(画像をクリックすると拡大します。)


(画像をクリックすると拡大します。)

[題材の云われ]
 坂田公時(金時)は、源頼光の四天王の一人として、酒呑童子との戦いに参加しました。坂田公時の幼名は金太郎で、熊と相撲をとるほどの怪力を持っっていたと伝えられています。足柄山で源頼光に見いだされ、家来となり「坂田金時」と改名して都へ上りました。
直線上に配置
1970(s45)年出陣『坂田公時と酒呑童子の決斗』山内岩蔵 作
(画像をクリックすると拡大します。)


(画像をクリックすると拡大します。)

[題材の云われ]
●酒呑童子退治
 平安時代、都で娘たちが神隠しに遭う事件が発生しました。これは大江山に住む酒呑童子の仕業と判明し、一条天皇の命を受けた源頼光が四天王(渡辺綱、碓井貞光、卜部季武、坂田金時)と共に鬼退治に向かいました。一行は山伏に変装し、眠り薬入りの酒「神便鬼毒酒」を使って酒呑童子を退治したとされています。
●伝説の背景
 酒呑童子退治の物語は、平安時代当時ではなく、南北朝時代頃に成立したと推測されており、江戸時代の『御伽草子』などで広く知られるようになりました。坂田公時と酒呑童子は、どちらも人ならざる力を持つ存在として描かれています。坂田公時は山姥の子として生まれた異常出生の持ち主で、その力は酒呑童子のような「人ならざるもの」を倒すために必要不可欠でした。
直線上に配置
1972(s47)年出陣『関羽と華雄』山内岩蔵 作
(画像をクリックすると拡大します。)

[題材の云われ]
 三国志演義第5回に関羽(雲長)が董卓軍の大将華雄を斬ったという話が登場します。劉備(玄徳)率いる部隊は袁紹(本初)を盟主とする連合軍の一員として水関で華雄の軍と対峙しました。
 華雄は猛将で知られ、連合軍から鮑忠が戦いを挑んだものの、一刀のもとに斬り捨てられてしまいました。次に連合軍からは勇将と名高い兪渉と大斧の達人潘鳳らが戦いを挑みましたが、華雄の敵ではありません。2人とも簡単に討ち取られてしまいました。連合軍の陣営ではなかなか意気が上がりません。そこで、名乗りを上げたのが当時はまだ無名だった関羽(雲長)です。
「私が華雄の首をここに持って参りましょう」と威勢よく声を上げました。曹操(孟徳)は関羽(雲長)を戦場に送り出す前に熱燗を一杯振舞おうとするのですが、関羽(雲長)は「注いでおいてくだされ。すぐに戻ります。」と言って、馬に飛び乗りました。
●一太刀で華雄を斬り殺す
 華雄の前に現れた関羽(雲長)は声高らかに挑発します。「貴様が華雄かっ。礼儀や道理も知らぬ者に仕えるとは憐れなやつよ…。」華雄は売り言葉に買い言葉で「そういうお前はどこのどいつだ?貴様猛将華雄の名を聞いて現れるとは命知らずのすることよ。」と問答を繰り広げた後、「いざっ」と声をかけて馬蹄を踏みしめました。
 関羽(雲長)は大きく振りかぶって自分を切り伏せようとする華雄を目にも止まらぬ速さで青龍偃月刀を切り上げたった一太刀で猛将華雄を斬り殺しました。
まもなく華雄の首を手に提げて連合軍の陣営に関羽(雲長)が戻ると、群雄たちは目を丸くして華雄の首を見つめていました。
 関羽(雲長)は袁紹(本初)の前に華雄の首を投げると、「これが華雄の首です」と言って曹操(孟徳)が注いだ熱燗を飲み干しました。その熱燗はまだ温かったと言われています。
直線上に配置
初陣(1935年)から復活後(1991年)まで続いた「石森橋越え」の難儀ルート
(画像をクリックすると拡大します。)


【初陣は1935年(s10)】
 私の調査では、1935年(s10)が1年賞、1936年(s11)が2年賞の様ですが、この2年間の記録が何も残されていません。後の大戦(青森大空襲)により全てが消失されたのかもしれません、、。
 年代から推測すると「青森県営電気局」が発足(1934)した翌年夏が初陣(第1回)で、1935年から現在の青森支店の場所(港町)から出陣していたようです。
 現住所は青森市港町2丁目ですが、私が入社した1967年(s42)頃は別名「大坂町」と呼ばれており、港町界隈のかなり広い範囲に及んでいました。その当時、青森町の大資本家であった⇒青森県営電気局の初代社長:大坂金助氏の所有地で有ったと聞いたことがある。
※注記⇒詳細については、こちらの Page「青森県営電気局」を参照ください
直線上に配置
(画像をクリックすると拡大します。)

(昭和25年)

(昭和29年)

(昭和30年)

(昭和31年)

(昭和32年)

(昭和33年)

(昭和34年part-1)

(昭和34年part-2)

(昭和35年)

(昭和38年)

(昭和40年)

(昭和42年part-1)

(昭和42年part-2)

(昭和42年part-3)

(昭和43年)

(昭和45年)

(昭和47年)
直線上に配置
トップ アイコントップページへ戻る次へ
直線上に配置