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電力ねぶたの歴史をたどります。

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出陣の足跡

平成16年 義経・弁慶 安宅の関dish


平成16年 『義経・弁慶 安宅の関』
ねぶた絵図
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平成16年製作『義経・弁慶 安宅の関』
 今からおよそ820年前,源平の戦の後,源義経は,はからずも讒言(ざんげん)によって兄頼朝と不仲となり,ついに追われる身となった。
 そして,義経主従は,藤原秀衡を頼り奥州平泉に向った。
 頼朝は,この動きを察知し,各地に関所を設けていた。
 ここはその一つ,富樫左衛門泰家(とがしのさえもんやすいえ)が関守(せきもり)として厳重な警戒に当たっている北陸加賀国安宅(あたか)の関に,義経主従が差し掛かっていた。
 山伏姿に変装した義経主従。安宅の関を通過しようとした,まさにその時,関守(せきもり)富樫に疑われた義経主従。
 弁慶は,機転で東大寺復興勧進(かんじん)のため諸国を廻る役僧(やくそう)と称し,白紙の勧進帳(かんじんちょう)を読み上げ通過しようとしたところ,義経に似たものがいると咎(とが)められる。
 そこで弁慶は,主君義経が富樫に疑われていることへの疑念を晴らすため,あろうことか「義経に似ているとは何事か」と金剛杖を持ち,義経を打ち据えた。
 富樫は,主君を打ち据えてまでその命を救おうとする弁慶の苦衷(くちゅう)を察し,すべてを知った上で,義経主従の通行を許すのであった。
 その後,義経主従が休憩した道林寺において,例え富樫を欺くためとはいえ主君を打ち据えた罪の大きさに,生涯泣いたことのない弁慶が頭を垂れて泣き詫びたのだった。義経は,弁慶の智謀(ちぼう)と自分を思う気持ちに,「機知の働きは天の加護」と感激し,その労を厚くねぎらったという。 ねぶた師 穐元鴻生作


運行風景
(連日の熱帯夜のなか運行されました)
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前ねぶた(今年もユアテックさんが活躍です)


跳ね人(先頭集団はT君の竹竿で安全確保)


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